「赤長」(赤部長福寺)として親しまれています。
慶秀さんのお寺です。
開基 慶秀
慶秀さん(1554~1609)
(生没年は寺伝書により記す)
・本願寺12世教如上人の教学的側近。
・慶秀は慶長10年(1605)に『正信念仏偈私記』を、
翌年に『三帖和讃私記』を著わすなど、高倉学寮創立
以前から教学・教化の先駆的な役割を果たしました。
・慶秀は教如上人から本願寺寺内の堀川七条に
寺地を与えられ、長福寺と号していました。その寺跡は、
後に山科本願寺の跡地に再建するため移築され、
現在の山科別院長福寺(京都市山科区)として
継承されています。
「慶秀画像」
長福寺沿革
・元亀3年(1572)、19歳にして本願寺11世顕如上人に
謁し、随従帰敬し、法名を得て慶秀と改める。
・天正元年(1573)、慶秀、大和国赤部に長福寺を開く。
(長福寺の尊号を本山より許される。)(寺伝書による)
・その後、教如上人に随い、京都堀川七条に寺地を
与えられ、長福寺と号した。
・また、教如上人東本願寺創立に際し、
慶秀は教如上人に随い大いに功があり、家康から
箸尾城主に命じて大和国新家の山林を与えられた。
・長福寺第二代空円(第三代斉円とも)は、拝領の地に
新たに一宇を建立し、これも長福寺の号を戴いた。
(現在の新家長福寺)
・長福寺第三代斉円没するに臨み、三長福寺を
本願寺に寄付した。京都堀川七条の長福寺を
山科御坊と称し、新家の地の長福寺を本山の掛所とし、
赤部の地の長福寺を斉円に下付し持坊住職地と定めた。
・平成20年(2008)、慶秀400回忌記念法要を勤め、
慶秀墓を修復し境内前庭に移設する。
「慶秀画像(掛軸)裏書」
裏書右下の「長」は教如上人の一子長麿(宜如上人の幼名)
「慶秀の墓」
主な年中行事
1月 修正会
長福寺総会
3月 春季永代経
10月 秋季報恩講・永代経
12月 門徒総報恩講
除夜の鐘
毎年/ 9回 第二土曜日 福寿会同朋会
毎年/12回 第四土曜日 尼講同朋会
※仏事の相談をお受け致します
「慶秀自刻の厨子入阿弥陀如来立像」
「長福寺寺伝書」
「贈講師」